家庭の教育力-信仰心の持つ力

2020/09/29 - 乃万 暢敏 - ブログ記事

個別学習塾を立ち上げて、38年目を過ぎようとしている。この間、様々なご家庭の教育相談に携わってきた。その間、幾多の母親が、面談で泣いたことだろう。

教育とは単に知識や受験に合格することだけが目的ではない。「教え、育む」ことだ。弊社の学習塾部門「グレイススタディケア」では、それぞれのご家庭の環境を大切にしている。もちろん学習塾だから受験指導もする。しかし、勉強だけでなく、生徒に対しては、日々の学習と生活が、ご父兄に対しては、家庭円満に心を傾けている。

保護者の方との面談は、長い時で3時間に及ぶこともある。最初は生徒のこと。それがお話をしているうちに、家庭内の問題が浮き彫りにされてくる。私たちは、救いを求められれば、全力を挙げてその折れそうな心に、そっと手を差し伸べる。面談に来られた時の暗いお顔が、なぜかお帰りになるときには、笑顔になっている。

そうした家庭に問題が起こった時、家族一人ひとりの心を照らす「信仰心」をお持ちの家庭では、リカバリーが速い。

さて、筆者は「信仰心」には2つの側面があるように感じている。1つ目は、先祖代々の相伝の宗教である。多くの日本人は、お正月には初詣に神社にお参りされる。お盆には故郷に戻り、先祖の霊を迎える。これが相伝の「信仰」だと思う。

2つ目は、親兄弟や家族といったまとまりとしてではなく、個々人が新たに信仰する宗教である。どの宗教でも良いが、オウムなどの社会に悪さをするようなものは決して容認できるものではない。そうでなければ、個々人として相伝の宗教以外に信仰することは許されるべきであろうと思っている。

では己が心を委ねる宗教を求めるとき、その宗教が信仰するに値するものなのかどうか?この身を委ねても良いのであろうか?こうした声に、世の中が認める宗教家は、その根拠と価値について、もっと語らなくてはいけないのではないだろうか?しかも救いを求める人々をミスリードしてはならない。

天皇陛下は、毎日のように賢所で額ずいていらっしゃる。それも国民の幸せと我が国の安寧をひたすら祈っておられる。これが「他利の精神」の極みであろう。天皇の権威は、こうした代々受け継いできた、つまり相伝の「御心」が礎となっているのだ。その意味で言えば、簡単に126代続いた皇統の重みを変えることに、慎重でなければならない。政府は、このことを国民に対して十分な理解を得られるよう努力すべきだ。我が国の世界におけるプレゼンスを考えるとき、安易に大きなかじ取りを行ってはならない。官邸は、慎重にも慎重を重ね、国民が十分納得できる説明を求めたい。

話は変わるが、当家の相伝の宗教は、真言宗高野山派である。奥の院に向かう参道に墓があるため、法事などでよく宿泊をしている。寺院は「準別格本山高室院」で、ここは北条氏とも縁が深いため、「小田原坊」と呼ばれているところである。

この寺も宿坊を行っているが、観光客よりも檀家の方が多い。毎早朝、5時から本堂で「朝のお勤め」がある。乃万家先祖代々の位牌と両親の位牌を前に、何とも神秘的で、決して華やかなものではないが、凛とした、荘厳たる空気がこの身を包み、心が癒される。

前夜には、高野山独特の精進料理をいただく。精進料理だから肉類は一切用いられない。たまに「これ、お肉?」と思ってしまうが、実はゆばを用い、あたかも肉のような触感と味を出している。見事なものだ。般若湯も少しいただくことが出来る。

先日、新型コロナウイル退散のご祈祷が行われた。高野山塔頭の各僧侶が一堂に会して、声明や真言を唱える。密教ならではである。これは「台密」とも呼ばれる叡山の天台宗でも同じことだ。

声明。これは何とも言えない祈りの歌?だ。私が学習院中等科時代に教わった音楽の先生に、藤原義久先生がいらした。先生は「開けポンキッキ」の作曲もされている。

先生は、密教で唱えられる「声明」が、日本のわらべ歌と似た旋律だと仰って、その研究をなさっていた。私は音楽は専門外なのでよく分からないが、一つのまとまりの旋律が尻上がりに持ち上がることが一致していると、仰っていた。

密教の僧侶になるためには、歌が上手くなくては様にならない。カトリックで言えば「聖歌」になぞらえることが出来よう。ゆめゆめ、敬虔なカトリックの国のカテドラルで、勝手に神父様がお祈りされる、壇上に登るような振舞いをなさらぬように!